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平成30年(行ケ)第10061号「安定な炭酸水素イオン含有薬液」事件

名称:「安定な炭酸水素イオン含有薬液」事件
審決取消請求事件
知的財産高等裁判所:平成30年(行ケ)第10061号 判決日:平成31年4月25日
判決:審決取消
特許法29条2項、特許法17条の2第3項
キーワード:進歩性、新規事項
判決文:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/668/088668_hanrei.pdf
[概要]
本件発明の発明特定事項に係る多数のイオン成分の濃度に関して、明細書中の実施例の数値に基づいて多数のイオン成分の一部のイオン成分のみを訂正することは審決および判決のいずれも新規事項には該当しないと判断したが、本件発明と引用発明との相違点については、引用発明に係る明細書の記載や新たに提出された周知技術等が考慮されて進歩性を肯定した審決が取り消された事例。
[事件の経緯]
被告は、特許第5329420号の特許権者である。
原告は、本件特許について特許を無効とする無効審判(無効2017-800014号)を請求し、被告は、訂正請求を請求したところ、特許庁は訂正を認めたうえで、本件特許を維持する審決をしたため、原告は、その取り消しを求めた。
知財高裁は、原告の請求を認容し、審決を取り消した。
[本件発明(訂正前:下線部補正事項)]
【請求項1】
ナトリウムイオン、塩素イオン、炭酸水素イオンおよび水を含むA液と、ナトリウムイオン、カルシウムイオン、マグネシウムイオン、塩素イオン、ブドウ糖および水を含むB液を含み、そしてA液およびB液の少なくとも一方がさらにカリウムイオンを含有し、A液およびB液の少なくとも一方がリン酸イオンを含有し、かつA液およびB液のいずれもが酢酸イオンを含有せず、
A液とB液を合した混合液において、カリウムイオン濃度が3.5~5.0mEq/Lであり、無機リン濃度が2.3~4.5mg/dLであり、そして少なくとも27時間にわたって不溶性微粒子や沈殿の形成が実質的に抑制される、
用時混合型急性血液浄化用薬液。
[本件発明(訂正後:下線部訂正事項)]
【請求項1】
ナトリウムイオン、塩素イオン、炭酸水素イオンおよび水を含むA液と、ナトリウムイオン、カルシウムイオン、マグネシウムイオン、塩素イオン、ブドウ糖および水を含むB液を含み、そしてA液およびB液の少なくとも一方がさらにカリウムイオンを含有し、A液およびB液の少なくとも一方がリン酸イオンを含有し、かつA液およびB液のいずれもが酢酸イオンを含有せず、
A液とB液を合した混合液において、カリウムイオン濃度が4.0mEq/Lであり、無機リン濃度が4.0mg/dLであり、カルシウムイオン濃度が2.5mEq/Lであり、マグネシウムイオン濃度が1.0mEq/Lであり、炭酸水素イオン濃度が32.0mEq/Lであり、 そして少なくとも27時間にわたって不溶性微粒子や沈殿の形成が実質的に抑制される、用時混合型急性血液浄化用薬液。
[取消事由]
取消事由1   訂正要件の判断の誤り
取消事由2-1 甲3を主引用例とする本件訂正発明1の進歩性の判断の誤り
取消事由2-2、3-6 省略
[裁判所の判断](筆者にて適宜抜粋、下線)
1 取消事由1(訂正要件の判断の誤り)について
『(2)訂正の適否について
・・・(略)・・・
ア そこで検討するに、・・・(略)・・・本件訂正により、A液とB液を合した混合液のイオン濃度について、一定の数値範囲を定めていたカリウムイオン及びリン酸イオンについて、当該数値範囲の中の特定の数値に限定し、イオン濃度が限定されていなかった炭酸水素イオン、カルシウムイオン及びマグネシウムイオンについて、特定の数値に限定するものであるから、訂正事項1に係る訂正は、本件訂正前の特許請求の範囲に記載された事項の範囲内においてしたものである。
そして、本件訂正前の特許請求の範囲(請求項1)の記載は、本件明細書等(甲33)の特許請求の範囲の請求項12(同請求項において引用する請求項4~6、8、11)、請求項17、[0055]及び[0086]に記載された事項の範囲内のものである。
そうすると、訂正事項1に係る訂正は、本件明細書等のすべての記載を総合することにより導かれる技術的事項との関係において、新たな技術的事項を導入するものとはいえないから、本件明細書等に記載した事項の範囲内においてしたものと認められる。
・・・(略)・・・
ウ これに対し原告は、本件明細書の表7の記載は、実施例1の混合液及び実施例2の混合液のそれぞれについて、ナトリウムイオン、カリウムイオン、カルシウムイオン、マグネシウムイオン、塩素イオン、炭酸水素イオン及び無機リンの各濃度が一体となって開示していると見るべきであり、そのうちの一つでも濃度が変動すれば、沈殿形成が抑制されるかどうかを改めて確認しなければ分からないものであるから、表7の実施例1の混合液及び実施例2の混合液の中から、「カリウムイオン、無機リン、カルシウムイオン、マグネシウムイオン、および炭酸水素イオンの濃度」のみを取り出すことは、新たな技術的事項の導入に当たるから、特許法134条の2第9項において準用する同法126条5項の要件に適合しない旨主張する。
しかしながら、前記ア及びイのとおり、訂正事項1及び2に係る訂正は、本件明細書等に記載した事項の範囲内の訂正であるものと認められるから、原告の上記主張は採用することができない。
(3)小括
以上によれば、本件訂正は、特許法134条の2第9項において準用する特許法126条5項に規定する訂正要件に適合するとした本件審決の判断に誤りはないから、原告主張の取消事由1は理由がない。』
2 取消事由2-1(甲3を主引用例とする本件訂正発明1の進歩性の判断の誤り)について
『(1)甲3の記載事項について
・・・(略)・・・
ウ 前記ア及びイの記載事項を総合すれば、甲3には、実施例4に基づいて特定される引用発明2が記載されていることが認められる。
この点に関し、被告らは、甲3の実施例4は、現在形を用いた文章で記述されていることからすると、単なる仮想実施例として記載された発明に過ぎず(米国特許審査便覧608.01(P1))、発明の効果も示されていないから、甲3の記載から具体的な技術的思想を抽出することができず、引用発明2は、引用発明としての適格性を欠く旨主張する。
しかしながら、甲3には、実施例4について、冒頭に「表9~11に従って、以下の対の単一溶液を調製した。」との記載があることに照らすと、実施例4が、全体として「現在形」で記載されているものとは認められない。
また、甲3の記載から、実施例4の医療溶液は、具体的な組成が特定された用時混合型の医療溶液であることを理解することができるから、引用発明2は、甲3の記載から、抽出し得る具体的な技術的思想であると認められる。もっとも、甲3には、実施例4の医療溶液に関し、混合液を調製後も一定時間にわたり安定な医療溶液であることを確認した実験結果の記載はないが、このことは、引用発明2が甲3の記載から抽出し得る具体的な技術的思想であるとの上記認定を左右するものではない。
したがって、被告らの上記主張は採用することができない。
(2)本件優先日当時の技術常識及び周知技術について
・・・(略)・・・
イ 透析液及び補充液の組成に係る技術常識又は周知技術
前記アの記載事項を総合すれば、本件優先日当時、①市販されている透析液及び補充液は、「急性血液浄化」のための血液濾過(透析)用に使用され得ること、②市販されている透析液及び補充液の組成は、ナトリウムイオン、カリウムイオン、カルシウムイオン、マグネシウムイオン、炭酸水素イオンを含むものであり、これらの電解質は、極めて狭い範囲で血中濃度を維持することが求められるため、一定の濃度が設定されていること、③市販されている透析液及び補充液において、カルシウムイオン濃度を「2.5~3.5mEq/L」、マグネシウムイオン濃度を「1.0~1.5mEq/L」、炭酸水素イオン濃度を「30mEq/L」前後の範囲の中で調整することは、技術常識又は周知であったものと認められる。
・・・(略)・・・
(3)相違点の容易想到性について
ア 相違点(甲3-1-1’)について
(ア)甲3の実施例4(表9)では、第一単一溶液及び第二単一溶液のうち、ナトリウムイオンは、第一単一溶液のみに配合されている。
・・・(略)・・・
以上の点に照らすと、甲3記載の実施例4(引用発明2)において、ナトリウムイオンを、通常のように、第一単一溶液及び第二単一溶液の両方に配合させる構成とすることは、当業者が適宜選択し得る設計的事項であるものと認められる。
・・・(略)・・・
イ 相違点(甲3-1-4’)について
(ア) 甲3には、引用発明2(実施例4記載の用時混合型の医療溶液)が「急性血液浄化用薬液」であることを明示した記載はない。
・・・(略)・・・
以上の点に照らすと、甲3に接した当業者においては、甲3記載の実施例4(引用発明2)において、当該「医療溶液」を「用時混合型急性血液浄化用薬液」にすることを試みる動機付けがあるものと認められる。
・・・(略)・・・
ウ 相違点(甲3-1-6’)ないし(甲3-1-8’)について
(ア) 相違点(甲3-1-7’)及び(甲3-1-8’)について
・・・(略)・・・
しかるところ、前記(2)イ認定のとおり、本件優先日当時、「急性血液浄化」のための血液濾過(透析)用に使用され得る、市販されている透析液及び補充液において、カルシウムイオン濃度を「2.5~3.5mEq/L」、マグネシウムイオン濃度を「1.0~1.5mEq/L」、炭酸水素イオン濃度を「30mEq/L」前後の範囲の中で調整することは、技術常識又は周知であったものである。
そして、上記技術常識又は周知技術を踏まえると、引用発明2における上記即時使用溶液のマグネシウムイオン濃度(「1.2mEq/L」)及び炭酸水素イオン濃度(「30.0mEq/L」)を市販されている透析液及び補充液のそれぞれの数値範囲の中で調整することは、当業者が適宜選択し得る設計事項であるものと認められる。
・・・(略)・・・
(イ) 相違点(甲3-1-6’)について
・・・(略)・・・
そうすると、甲3に接した当業者においては、滅菌の安定なリン酸塩含有医療溶液を得るために、引用発明2における第一単一溶液と第二単一溶液を混合した即時使用溶液の「HPO₄²⁻」(リン酸イオン濃度)「1.20mM」(無機リン濃度3.72mg/dL)を上記③の「1.0~2.8mM」(無機リン濃度3.1~8.7mg/dL)の範囲内で調整することを試みる動機付けがあるものと認められるから、引用発明2における無機リン濃度を上記数値範囲内の「4.0mEq/L」(相違点(甲3-1-6’)に係る本件訂正発明1の構成)にすることを容易に想到することができたものと認められる。
・・・(略)・・・
エ 相違点(甲3-1-3’)について
(ア) 本件訂正発明1の特許請求の範囲(請求項1)の記載中には、本件訂正発明1の「そして少なくとも27時間にわたって不溶性微粒子や沈殿の形成が実質的に抑制される、」との構成の意義を規定した記載はない。
・・・(略)・・・
以上によれば、本件訂正発明1の「少なくとも27時間にわたって不溶性微粒子や沈殿の形成が実質的に抑制される」という構成は、引用発明2において、相違点(甲3-1-1’)、(甲3-1-4’)、(甲3-1-6’)ないし(甲3-1-8’)に係る本件訂正発明1の構成とした場合に、自ずと備えるものといえる。
・・・(略)・・・
(4) 本件訂正発明1の顕著な効果について
・・・(略)・・・
さらに、本件審決は、本件訂正発明1は、「急性血液浄化用薬液」として有用であるという、甲3の記載からは予想し得ない効果を奏するものである旨判断したが、前記(3)イのとおり、当業者は、引用発明2を「用時混合型急性血液浄化用薬液」として使用することを容易に想到することができたものと認められるから、甲3の記載からは予想し得ない効果であるとは認められず、本件審決の上記判断は、誤りである。
(5) 小括
以上によれば、本件訂正発明1は、当業者が、甲3に基づいて、容易に発明をすることができたものと認められるから、これと異なる本件審決の判断は誤りである。
したがって、原告主張の取消事由2-1は理由がある。』
[コメント]
本判決および審決では、実施例の記載に基づく数値限定が新規事項でないことが示されている。実務上も行われている補正であり妥当と思われる。一方、進歩性については、審決で引用された引例に係る明細書中の文言の精査した解釈と周知技術等により、引用発明との相違点の想到容易性が認められて、当該引用発明に基づく進歩性が否定されている。本件では進歩性を肯定した審決が取り消されているが、本件のような事例では相違点の解釈やその想到容易性は判断主体により異なる場合も多いと考えられ、いずれの判断が妥当ということは難しい。但し、判決では、周知技術等が提出されているため、その存在意義が大きい場合は、明細書の記載を含めて、請求項の文言解釈が重要になることに変わりはない。           以上
(担当弁理士:光吉 利之)

平成30年(行ケ)第10061号「安定な炭酸水素イオン含有薬液」事件

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