IP case studies判例研究

平成31年(行ケ)第10011号「遺伝子産物の発現を変更するためのCRISPR-Cas系および方法」事件

名称:「遺伝子産物の発現を変更するためのCRISPR-Cas系および方法」事件
審決取消請求事件
知的財産高等裁判所:平成31年(行ケ)第10011号 判決日:令和2年2月25日
判決:審決取消
特許法29条第2項、29条の2
キーワード:進歩性、先願発明との同一性
判決文:https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/261/089261_hanrei.pdf
[概要]
 CRISPR-Cas関連のベクターの発明において、標的配列に導く為のRNAの1つであるtracrRNAの配列の長さを30以上のヌクレオチドとして下限値を規定した点に関して、引用発明1では、tracrRNAの配列の長さ自体を規定するという技術思想が表れてはいない為に先願と同一とはいえず、また、tracrRNAが26のヌクレオチドの長さを有するものが開示されている引用文献2に基づいて容易想到でもないとして、審決の判断を覆した事例。
[事件の経緯]
 原告ら(ブロード研究所)は、平成28年6月29日、「遺伝子産物の発現を変更するためのCRISPR-Cas系および方法」について特許出願をした(特願2016-128599。特願2015-547555(優先権主張:平成24年12月12日・米国)の分割。)
 平成29年5月9日付けで拒絶査定を受けたことから、同年9月15日、これに対する不服審判の請求をし、特許庁は、上記請求を不服2017-13796事件として審理した。
 特許庁は、平成30年9月14日、本件審判請求は成り立たないとする審決をした。
 原告らは、平成31年1月29日、本件審決の取消しを求める本件訴えを提起した。
 知財高裁は、原告の請求を認めた。
[本発明](筆者にて下線)
【請求項1】
 エンジニアリングされた、天然に存在しないクラスター化等間隔短鎖回分リピート(CRISPR)-CRISPR関連(Cas)(CRISPR-Cas)ベクター系であって、
 a)真核細胞中のポリヌクレオチド遺伝子座中の標的配列にハイブリダイズする1つ以上のCRISPR-Cas系ガイドRNAをコードする1つ以上のヌクレオチド配列に作動可能に結合している第1の調節エレメントであって、前記ガイドRNAが、ガイド配列、tracr配列及びtracrメイト配列を含む、第1の調節エレメント、
 b)II型Cas9タンパク質をコードするヌクレオチド配列に作動可能に結合している第2の調節エレメントであって、前記タンパク質が、核局在化シグナル(NLS)を含む、第2の調節エレメント
 を含む1つ以上のベクターを含み;
 成分(a)及び(b)が、前記系の同じ又は異なるベクター上に位置し、
 前記tracr配列が、30以上のヌクレオチドの長さを有し、
 それによって、前記1つ以上のガイドRNAが、真核細胞中の前記ポリヌクレオチド遺伝子座を標的とし、前記Cas9タンパク質が、前記ポリヌクレオチド遺伝子座を開裂し、それによって、前記ポリヌクレオチド遺伝子座の配列が、改変され;前記Cas9タンパク質及び前記1つ以上のガイドRNAが、いっしょに天然に存在しない、
 CRISPR-Casベクター系。
[審決]
 引用発明1において、本願発明の「tracr配列」に相当する部分を30以上のヌクレオチドの長さとすることは、設計上の微差にすぎないとし、先願発明と同一とした。
 引用発明2のCRISPR-Cas系を真核細胞中のゲノムに対して機能させようと試みることに十分な動機付けがあり、仮に本願優先日前に、CRISPR-Cas9系が真核生物において機能することを合理的に予測することができなかったとしても、それが阻害要因となるものではない、として、進歩性を否定した。
[取消事由]
 引用発明1に基づく特許法29条の2の判断の誤り(取消事由1)
 引用発明2に基づく進歩性の判断の誤り(取消事由2)
[裁判所の判断](筆者にて適宜抜粋、下線)
『 2 取消事由1(引用発明1に基づく特許法29条の2の判断の誤り)について
・・・(略)・・・
 (5)相違点の検討
・・・(略)・・・
 イ 本願明細書の【0162】には、tracr配列の長さとゲノム改変効率の関係について、「EMX1およびPVALB遺伝子座中の5つ全ての標的について、tracr配列長さの増加に伴うゲノム改変効率の一貫した増加が観察された」との一般的な説明がなされ、特に、ゲノム改変効率の増加が優れるものとして、nが67、85、すなわちtracr配列の長さが45、63のキメラRNAをとりあげて、「野生型tracrRNAのより長い断片を含有するキメラRNA(chiRNA(+67)及びchiRNA(+85))は、3つ全てのEMX1標的部位におけるDNA開裂を媒介し、特にchiRNA(+85)は、ガイド及びtracr配列を別個の転写物中で発現する対応するcrRNA/tracrRNAハイブリッドよりも顕著に高いレベルのDNA開裂を実証した(図16b及び17a)。ハイブリッド系(別個の転写物として発現されるガイド配列及びtracr配列)を検出可能な開裂を生じなかったPVALB遺伝子座中の2つの部位も、chiRNAを使用してターゲティングした。chiRNA(+67)及びchiRNA(+85)は、2つのPVALBプロトスペーサーにおける顕著な開裂を媒介し得た(図16c及び17b)。」との説明が加えられている。
 そして、本願明細書の図16や図17を参照すると、プロトスペーサー1やプロトスペーサー3を標的とした場合については、nが+67、+85である場合のみならず、nが+54、すなわちtracr配列の長さが32のキメラRNAである場合も、nが+48、すなわちtracr配列の長さが26のキメラRNAを上回る改変効率が得られていることを見て取ることができ、本願発明がtracr配列につき30以上のヌクレオチドの長さに設定したことによって引用発明1とは異なる新たな効果を奏していることも理解できる。
 このように、本願発明は、「tracr配列の長さ」に着目し、「tracr配列が、30以上のヌクレオチドの長さを有」するものという構成を採用したことによって、ゲノム改変効率が増加することを特徴とするものである。
 他方、引用例1には、ガイドRNAが第一領域から第三領域までの3つの領域を含むこと(【0067】)、ステムの長さは約6から約20塩基対長であってよいこと(【0069】)、一般的に、第三の領域は、約4ヌクレオチド長以上であり、例えば、第三の領域の長さは、約5から約60ヌクレオチド長の範囲であるとすること(【0070】)、ガイドRNAの第二及び第三領域の合わせた長さは、約30から約120ヌクレオチド長の範囲であり得ること(【0071】)が記載されているにすぎない。
 ウ また、本願明細書【0063】の「ループの3’側の配列の部分は、tracr配列に対応する」の記載によれば、本願発明のtracr配列は、引用発明1の第二領域の片方のステムと第三領域を合わせたものに相当すると認められる。しかし、引用例1には、tracr配列(第二領域の片方のステムと第三領域を合わせたもの)の長さそれ自体を規定するという技術思想が表れてはいない。
 さらに、本願優先日当時、tracr配列の長さを30以上のヌクレオチドの長さとするとの当業者の技術常識が存在したことを認めるに足りる証拠はない。
 エ よって、引用例1に「tracr配列が、30以上のヌクレオチドの長さを有」するものという構成を採用したことが記載されているといえないし、技術常識を参酌することにより記載されているに等しいともいえない。』
『3 取消事由2(引用発明2に基づく進歩性の判断の誤り)について
・・・(略)・・・
 (4)相違点4の判断について
 ア 引用例2には、全長成熟(42ヌクレオチド)crRNAと、5’又は3’末端で配列が欠如した様々な切断型のtracrRNAを組み合わせて再構成された二本鎖のCas9-tracrRNA:crRNA複合体を用いた試験において、天然配列のヌクレオチド23~48(tracr配列のヌクレオチド長は26)を保持しているtracrRNAがCas9によるDNA切断に有効であることが示されている(前記(1)ウ、ク、図3A)。
 また、tracrRNA:crRNAは一本鎖のキメラRNAに設計でき(前記(1)ア)、ヌクレオチド23~48を保持した長いキメラA(tracr配列のヌクレオチド長は26)が、二本鎖のtracrRNA:crRNA複合体を用いた場合と同じような挙動でCas9によるDNA切断を誘導したこと、他方、短いキメラB(tracr配列のヌクレオチド長は18)の場合には、DNA切断を誘導できなかったこと(前記(1)エ、オ、図5B)が示されている。
 以上の引用例2の実験結果に接した本願優先日の当業者は、26ヌクレオチド長よりも短いtracr配列は、Cas9の開裂効果が劣ることから、Cas9タンパク質による標的配列の開裂には、少なくとも、天然配列の23~48を保持した26ヌクレオチド長のtracr配列を含む必要があることを理解する。
 ところが、tracr配列の長さについては、26ヌクレオチドより短い場合との比較では、長い26ヌクレオチドの方が好ましいことは理解できるものの、引用例2には、26ヌクレオチドより長い場合で比較した場合に、より長さの大きいtracr配列の方が好ましいことを示す記載は、見当たらない。
 加えて、本件全証拠によっても、本願優先日当時、tracr配列の長さが大きければ大きいほど好ましいことを示す技術常識が存在したことを認めるに足りない。
 (イ) 一方、本願明細書の【0162】によると、tracr配列の長さとゲノム改変効率の関係について、「EMX1およびPVALB遺伝子座中の5つ全ての標的について、tracr配列長さの増加に伴うゲノム改変効率の一貫した増加が観察された」との一般的な説明がされ、本願明細書の図16や図17から、プロトスペーサー1やプロトスペーサー3を標的とした場合に、tracr配列の長さが32のキメラRNAの方が、tracr配列の長さが26のキメラRNAよりも、ゲノム改変効率に優れていると理解することができる。
 そうすると、引用例2の記載や本願優先日の技術常識を勘案しても、ゲノムの改変効率を向上させる観点で、引用発明2のtracrRNAの長さについて、引用例2に具体的に開示されている26から30以上に変更することを、当業者が動機付けられていたということはできない。
 (ウ) また、本願優先日当時、引用例2の要約に記載された細菌や古細菌の獲得免疫に由来するCRISPR/Cas系(前記(1)ア)を、緩衝液中での混合(試験管レベル)でなく、真核細胞に適用することができた旨を報告する技術論文や特許文献は存在しておらず、tracr配列の長さを30以上に設定するという技術手段を採用することで、真核細胞におけるゲノム改変効率が向上するという効果は、当業者の期待や予測を超える効果と評価することができる。
 (エ) したがって、相違点4として挙げた本願発明の発明特定事項、すなわち「tracr配列」について、「30以上のヌクレオチドの長さ」とすることは、引用例2の記載や本願優先日の技術常識を参酌しても、当業者が容易に想到し得たとはいえないものである。』
[コメント]
 応用分野が広いゲノム編集の画期的手法と言われるCRISPR-Cas系の発明に関する裁判例である。ゲノム編集は、農作物の品種改良や医療への応用可能性も報告されており、一般的には、本技術についての特許取得の意義は大きい。一方、CRISPR-Cas関連発明については、各国で複数の出願人、権利者がいる状況である。
 本件における特許権者はブロード研究所、引用文献1は、シグマアルドリッチの日本における特許出願、引用文献2は、カルフォルニア大学のダウドナ教授らを筆者に含む文献である(Science, Aug 2012, Vol.337, p.816-821)。
 審決では、引用文献1との差異は微差であり、先願発明と同一とされた。また、引用発明2を基にして、本願発明の構成を試みることに十分な動機付けがあり、成功の合理的な予測ができなかったとしても、それが阻害要因となるものではないとして、進歩性が否定された。本判決では、この点、tracrRNAの下限値を規定した本願発明の効果を認めて、引用文献1の発明と同一ではなく、引用文献2に基づく進歩性はあると判断した。具体的には、本願の明細書の実施例に記載されている実験結果中、tracrRNAのヌクレオチドの長さ26bpと32bpを比較して本発明の効果を認めている。
 なお、本判決と同日に出された別件の判決では、原告は同一、対象出願は異なる件であるが、同じ引用文献1と2により、先願発明との同一性があり、進歩性は欠如するとされている。本件と異なる点の1つは、tracrRNAの下限値などの数字は請求項には含まれていないことである。
 本願の分割出願も別件の判決の対象である出願の分割出願も未だ複数特許庁に係属中である。

(担当弁理士:高山 周子)

平成31年(行ケ)第10011号「遺伝子産物の発現を変更するためのCRISPR-Cas系および方法」事件

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